【日々精進】私の人生②
私も小学校に入り、小3に両親が離婚が成立していました。私は全く知りません。
離婚が成立し、今まで住んでいたアパートから新しい所に移る時、私は父に連れられ、父の実家に住むようになりました。
後から知ったのですが、父が母に『1人で自立して生活出来るまでは俺が面倒をみる』と言っていたそうです。
慣れない父と祖父母との新しい生活が始まりました。父方は自営業をしていたので、学校から帰ってくると、家には誰もいませんでした。
住み始めた所も私の小学校の学区とは外れていて、近所には、同じ学校に通う子は居なかったので、友達がいません。
家に帰ってから、同じ学校の子と遊ぶとなるとカナリの時間のロスになったので、次第にその頃は、学校の友達と放課後は遊ばなくなってしまいました。それでも、私は明るい子でした‼︎
しかし、この頃の私は、学校でも忘れ物が多くてよく叱られていて、その連絡も母の方に入っていたので、それに関して母と父が電話で喧嘩していた事もありました。
週末の楽しみは、母に会う事。お出かけしたり、お買い物。
私は何故か欲しいものは全て母に言っていました。父には欲しい物があっても、それを何故か欲しいと言えませんでした。
欲しいと言えば買ってもらえるのに、父とは距離があって言えなかったみたいです。
母には『パパに言って買ってもらえば良いのに〜』とよく言われてました。
楽しい時間はすぐ終わり、また1週間淋しい生活が始まります。
父も忙しかった為。ほとんど家に居なかったので、朝学校に行く前に会うだけでした。
こんな生活が9ヶ月間続きました。
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【日々精進】私の人生①
まずは、私の生い立ちからお付き合い頂けたらと思います。
私は、20歳の夫婦の間に産まれました。昔はさほど珍しい事ではないですよね^_^
でも、今の私なら分かる、20歳での子育て…
上手くいくはずない。
そう、うちは、私が小3の時に正式に離婚しています。別居し始めたのは、私が年中さんくらいだと思います。
私の中の記憶では、母と父が仲良しだった記憶はありません(;_;)
家の中は母がいる時は、父が居ない。父がいる時は母が居ないという状況でした。
3人で一緒に暮らしていた最後の記憶が、母と父の大げんか。
理由は知りませんが、父は怒りまくって家中にビールを撒き散らし、母が泣きながらそれを拭いている。
父が怒ったまま玄関に行き、靴を履いていたので『今日は帰ってくる?』と父の背中に問いかけても『……』無言のまま。
その日父は帰ってきませんでした。
それからすぐ、母と父は別居。
私は母との生活。たまに、母が外出すると、
入れ替わりで父が家にくる。
その日は一日中父と過ごし、朝起きると父は居ない。
そんな生活に子供の頃の私は、変な感覚はあったのだと思いますが、子供だったからその変な気持ちを言葉にする事が出来なかったんだと思います。それが象徴されたような出来事が記憶にあります。
隣の家のお宅は、土日になるとお父さんと子供達がよく家の前で遊んでいました。私の事もよく混ぜて遊んでくれましたが、子供の頃によくやる遊び。【かくれんぼ】の時に私は必ずどこかに逃亡してその親子を困らせていました。
今思うと、寂しさからくる行動だったのではないだろうか。困らせるというか、寂しくて不安になる。自分は見つけてもらえるのだろか?など、子供の心は計り知れないですね。
実際に、この頃からずっと精神不安定だったと思います。
腹痛がずっと続いていて、夜中に救急車で何度も運ばれ、検査しても原因不明。
夢遊病で目を瞑ったまま部屋の中を走り回ったり。
こう幼少を振り返るだけでも、相当ヤバかった私(>_<)
こんな私、まだまだ壮絶な人生が待っているんです(ノ_<)
ここまで読んで頂きありがとうございましたm(__)m
こんなぁ人生から気づかされ、転生していきました。
しばらく、半生を振り返ります。
本題まで、しばらくお付き合い下さいm(__)m
【日々精進】小さなことの積み重ね
はじめまして。
ブログ初挑戦のyuuでございます。
まずは、簡単に自己紹介。
年齢30代 女 既婚者 子アリ(簡単すぎ)
ブログを始めようと思ったきっかけは、今までの人生で気づかされた事、日々気づかされる事を残していきたいと思い開設しました。
私の気づいた事が1つでも皆様の役に立ったら嬉しいです。